そして手術そして 手術 ここからは記憶がとんでたり、意識がなくて私が知らないこともある。 後になって家族や先生に聞いたこともある。 それをわかるままに書こう。 脳血管造影検査が終わった翌日、教授の N先生 が初めて、 私のベッドのところにみえた。 名前だけは知っていたが、お顔は拝見したことがなく、 私は目が悪くて名札が見えずに困っていた。が、先生のほうから 「 N です。今日から私が担当します。」 と言われたのでよかった。 それから毎日 T先生 と N先生 は、ベッドサイドにきて様子をみたり。 N先生 が病気の説明を簡単にしてくれるのだけど、 簡単過ぎてよくわからない。 下垂体腫瘍 ならこんな手術法でしますが、あなたの場合は、髄膜腫 ですから、 それはやめてこうしましょうとか・・・ いま思い出すと、笑えてくる。 なにも分からない人に、先生だって説明のしようがないでしょう(笑) 今だってよく分かってないけど、4年半経って、その間にすこしだけかじったのと、 自分の体のことなら興味深々。だって敵を知らなければ・・・ねぇ・・アハハ・・・ 勢力を伸ばしてくるやつには、こっちだって、 それなりに先生たちの助けを借りたりして対処します。スクラム組んで。 N先生 「 4月から予定があるそうですから、それまでに退院できるように、早くしましょう。」 ( 私 「うん? なんで知ってるの?」) N先生 「 木曜日が大手術の日なので、2月17日の木曜日にしましょう。」 (私 「うん? 大手術って? 誰のこと?、、、、私のことらしい、、、、」) ということで、素直で従順なワタクシ の手術日は、 真近かな日の2月17日に決定。 考える暇がなくてよかった。考えてもおなじ。 2月15日(手術前々日) 「 これをやっておかないと、手術は受けられないの、、、」 と自分の都合ばかりを、いつものように言って、 小さな店の奥さんは、閉店後のタイムカードを、娘に持ってきてもらい、 給料計算のやり方を、娘に教えた。 ほかの経理の間に合わせ的なことは言ってきたけど、これはやってなかったので。 同室の方たちは皆寝てるし、時間も遅いので、談話室で。 2月16日(手術前日) お昼前、看護婦さんに剃髪をしてもらった。 おわって鏡を見て、はじめての自分の坊主あたまに、 「うわぁ、一休さんみたいーッ!」 と言ってしまった。が、そんなに可愛いわけない。年を忘れてた。 部屋にもどってからも、やってくる人にも、みんなに 『 わたし、悟りをひらきました 』 と言っていた。ずうずうしけど、どうせだれも信用しないので。 それに全くのウソだったし。 午後になって、九州の実家の母がやって来てくれた。 これでmy娘はだいぶ楽になる。 家事の手伝いをしてもらえるので。 一緒にやってきた私の姉に、私は 「 明日、わたしロボコップになるの 」 と言っていた。 これは、そのときの先生たちには、絶対に聞かせるわけにいかない冗談。 手術のあとは必ず ICU (集中治療室)に入るので、見学に行ってきた。 でもぜんぜん現実感なし、翌日だというのに。 それから、麻酔科の先生が説明にみえた。 手術室担当の看護士さんも説明にやってきた。 この日は、めっちゃくちゃいそがしいなぁ・・ 夕方、夫と私の二人で、N先生 から手術の説明を受けた。 どの方向から開頭するかとか、どの神経が切れてしまったらどうなるかとか、 たぶん詳しく説明していただいたと思うのだが、あまり覚えてない。 夫が帰る時にエレベーターまで見送っタ。 その顔が、まるで幽霊のようで、あとから家に電話をして、息子に 「 お父さん無事に着いた?」 と聞いたのだった。 前のページはここをクリック |